ありのままで

映画の大ヒットにより、流行語にもなりました。

自己の性質を否定し、行動に制限をかけ続けてきたヒロインが、抑圧を解き放つ。

その姿を、自身に重ねられた方も多くいらっしゃるでしょう。

ありのままの自分として生きる

これは、誰しも願うことですね。

ところが、この「ありのまま」という真の意味が、歪めて解釈されているように感じることがあります。

多くは「わがまま」と混同しているケースです。

「ありのまま」という言葉のわかり難さが、誤解をうむ原因のひとつかもしれません。

今回は、言語の構成とスピリチュアルの観点から、ありのままという言葉の意味を考察しました。

そこから、わがままとの違いを見つめたいと思います。

Point

◆ ありのままという言葉の意味

◆ ありのままとわがまま

◆ 霊性向上のポイント

 ※この記事は3分で読み終えられます

ありのままとは

「ありのまま」を漢字にすると、「有りの儘」「在りの儘」になります。

「儘」は多義ですが、ここでは「その状態や成り行きに任せる」といったニュアンスになるでしょうか。

不要な力を加えず、そのまま委ねるという意味です。

有りの儘

「有無」の有る。

所有できたり、五感でキャッチできたりする、どちらかと言えば三次元(物質)的です。

在りの儘

「存在」の在る。

有るを包含し、さらに五感を超えた感覚で受け取る対象も入るため、多次元(スピリチュアル)的です。

ありのままに生きる

ありのままの自分

これらが意味する「ありのまま」とは、後者を指しています。

相対的な有る(⇔ 無し)ではなく、絶対的な在るを、そのまま受け入れること なのです。

宇宙意思(神)にしたがう姿勢

このように言い換えると、イメージしやすいかもしれません。

ありのままの姿とは

人は、生まれて以後、学習を重ねて成長します。

そこには、生き抜くために必要な知識・知恵のほか、周囲からの刷り込みや、経験による非合理な信念も混在します。

加えて、ここは相対の世界。

比較による優劣や正誤といったジャッジが、常につきまといます。

そのため、自信を無くしたり、本心に背を向けたりして、別人になろうとする心理になりやすい のです。

ありのままに生きるとは、このような自分に「NO」を示す。

つまり、「別人になる必要はない」という意味です。

ありのままの姿=生まれたときの姿

この世界に誕生した瞬間の姿が、本来の私たちなのでしょう。

可能性を狭めたり成長の芽を摘んだりすることなく、軽やかな心で生きる。

自己を肯定し、生活のなかで起こる出来事を、そのまま受け入れて学ぶ。

これが自然体なのかもしれませんね。

開放する≠野放しにする

冒頭でお伝えしたように、定義の抽象度が高くなると、自由な解釈が可能になります。

「自身の内側から湧くエネルギーをそのまま放置する」

これが、ありのままの姿だと思われる方がみえます。

内側から湧くのは、潜在意識で生み出される 本能や情動 であり、それが行動を決定づけます。

暴れ馬に喩えられるこれらは、放置すれば暴走する性質のものです。

さらに情動は、非合理な信念(思い込み)によるネガティブな要素を含みます。

やや不適切な表現を用いますが、放置することは、これらのエネルギーを宇宙へ「垂れ流す」ことと同じです。

よって、意味を履き違えると、単なる「わがまま(我儘)」になってしまいます。

映画は「開放」のイメージが強かったかもしれません。

あれは、「足枷」から自由になること を表現しています。

我(エゴ)を野放しにすることではないのです。

  • 嫌なことはしなくていい
  • そのままでいい
  • 自由に生きる
  • 全肯定
  • 自分は完全

上記の言葉もありのまま同様、誤解が見受けられる言葉でしょうか。

なお、当ブログが以下で触れた「私たちはみな、そのままの姿が完全」とは、一人ひとりの「存在」のことです。

全知全能の神を「完全」とすれば、当然、私たちは「不完全」になります。

これも多様な解釈ができます。

どのように受け止めようと、それは個人の自由ですね。

ただ、勘違いに気づかないままだと、結果的には自分が損をすることになります。

なぜなら、成長しないため、学ばされる出来事に遭遇し続けるからです。

カルマの学びを後回しにするほど、苦しみを累積することになります。

ありのまま生きていると信じていたのに
放っていたエネルギーが自分の望まないものだった

知らぬ間に、望みと逆にいたということのないよう、ご注意ください。

陰陽の法則に照らし合わせるのも、理解の歪曲に気付くひとつの方法かもしれません。

ここは、プラスもマイナスもない、バランスのとれた世界。

バランスが崩れる=真理ではない

傍若無人に生きる・・・他者より自分を優先
自己犠牲に生きる・・・自分より他者を優先

これは、どちらも偏っており、ありのままとは言い難い姿です。

中庸に位置し、平常心で穏やかな生活が送れているなら、ひとまず安心だと思います。

霊性向上のポイント

スピリチュアリズムでは、人はみな魂の存在であり、この世に生きる目的は、霊性向上であると教えられます。

私は、霊性向上における学びを、以下の2点に大別しています。

  • 理性的に生きる(本能・感情との均衡)
  • 利他的に生きる(小我から大我へ)

先述のとおり、潜在意識で生まれる本能や情動は、強い衝動性を帯びています。

そのような、激しい本能・感情をコントロールするのが「理性」です。

理性は、人生の事象を、宇宙の理(霊的真理)にそって判断し、合理的な行動に繋げる力 です。

また、人との関わりの中で、感性を占める割合が、利己から利他へと「自然に」移行 することも成長です。

大我は愛の覚醒と結びつきますが、その学びは日常にあふれています。

仏教でいう三毒をはじめ、人間にはさまざまなエゴ(利己的な欲求)があります。

私自身もエゴを炙り出されては、学ばされる日々です。

はじめは感性のほとんどを占めていた利己が、次第に利他へと拡がっていく。

それは、成長とともに自己から外界へと関心を拡げていく、人の心理発達に似ています。

人間の成長サイクルは、魂の成長サイクルを縮尺表現しているのかもしれませんね。

小我と大我については、寄付をテーマに以下でも触れました。

大我とは特別な意味ではなく、ご縁(関わり)のあった方々を大切にする ことです。

小我(自分中心)に生きていると、他人の気持ちに鈍くなったり、相手の言動に不満を覚えたりすることが増えてきます。

学びの途上であること、未熟な面が多々あること、どちらも「お互い様」ですね。

相手を尊重し、許す器を作ることも、大我に向かうための学びだと思います。

最後に・・・

映画の主人公のように、天から授かった性質に誇りをもち、ありのままの自分として生きる。

その姿は、今世での学びを全うする決意の表れのように映りました。

諸行無常の世で進歩しないのは、維持ではなく退歩 です。

また、宇宙の流れを止めることは、自然体を意味する「ありのまま」とは逆 の姿勢になります。

大我の心を育み、理性的に生きるのは難しいことです。

だから、私たちは努力し続けるのですね。

劣等感を補うための苦しい努力ではなく、本来の姿(高次意識)に近づくための幸せな努力。

これも、「ありのまま」の姿だと言えるのではないでしょうか。

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